昭和40年05月21日 夜の御理解
今朝から、朝の御理解の中に信心の稽古をさせて頂く、教えを教えられるけれども、これだけは、あの習いものが、体得しなければいけない事が、本気で稽古をする、者だけしか味わうことは出来ないという、いわゆる、体得ですね体得するより他にないと言う事。そこにあの信味と、信心の味わいと言うものがあるという、御理解を頂いたのですけれどもね。今日もう久しぶりで家族そこで、家内と私と、長女とそれから、二番目の娘と、そして久富先生です。
もう久しぶりで、あのお茶を頂きました。ほんで何の話からだったでしょうか、もう十三、四年も前に頂いた御理解を思い出させて頂いたんですね。その話を改めてさせて頂いたら家内でも子供でも改めて感心してから、聞いておりましたから、そのお話をまた今晩聞いて頂き、そしてははぁこういうような、生き方、こういうようなあり方にならせて頂いたら信心の体得というか、こつあいというかなるほど「我が身は神徳の中に生かされてある」なあというこの実感をです。
味わうことが、いわゆる信心の、いわゆる信味ですね、信味を味わう事が出来るなあとまあ思うのです。もうそれも、十三、四年前の話なんですね、丁度ここに私、御結界一年あまりは御結界がございませんでした、ここに大接台を置いてから、して、お参りをしてくる方達に、このお話をしておったのですね。そして段々あれこれが整いましてから、ご結界に座らせて頂いた当時の事でした。何かあの、まだ勝彦が子供の時だったでしょう。なんか、あっちでその喧嘩しとる。子供達、兄弟喧嘩を。
それを、家内があちらから聞きつけてですね、大きな声を言うて、あのまあ怒りながらここを走って、こう行くわけですね。それがあんまりにもはしたない、その感じたもんですから、私こっからですたいね「おいおいち、子供達の喧嘩に親がそげん、お前が一生懸命なるこつがいるか」ち。というてから、私申しましたんですよ。申しましたその後にですね、すぐ頂きます事がね、もう小学校の時に私共の、読本の何か「無言の行」という、まあ、笑い話のような、のが載っておりました。
そのところの場面を頂くんですね。あるお寺さんの、いわゆるその、和尚さんと、小僧さんと中憎さんと、三人で無言の行を始めたというわけなんですね。これから、一週間、無言の行をするぞと。それから話させて頂いたところがその、夕方になり、日が暮れかかったんですね。明かしがついた。ところがその明かしの油が、じりじり言うてその、消えだしたんです。それからその、小僧さんが心もとなくなったんですね。
廓の方へ、その、寺男の方におらんで「こらこら、灯りが消えかかっておろうが」というてからおらんだというわけなんです。そしたら、中憎さんが言われる事が、「お前の無言の行ぞ」と。「物を言うたり、そげんおらぶこつが出くるか」ち中憎さんが言うたち。ね。そしたらその、和尚さんが、それから悟り済ましたようにしてからその仰った。ね。「とうとう最後まで言わなかったのは俺だけじゃった」(笑)。丁度その場面が子供達の喧嘩が小僧さんのその、ね。
どうでしょう家内が走っていきよるのが中憎さんのところでしょう。私がここでいわゆるご結界で悟りすましたようにして、おいおいち何をそんなにはしたない、走ってから子供の喧嘩になんでそういう事がいろうかと、大憎さんが言いござるというて神様が笑いなさった事をです、ね。お願いさせて頂いたのですけれども。本当にそうでしょうが子供がどうの、誰がどうの言う資格が実をいうたらあるかと言う事ですよ。ね、
いうなら私が家内にどうか言う資格があるかと言う事なんですよ。ね。その辺をやっぱり、今朝辺りから、昨夜から今朝にかけて頂きますようにです。ね、我情を捨てると言う事。自分の思いを捨てると言う事。ね。ああ、あればいい、こうあればいいち、そういうはしたないことで、どうするだろうかと思わずにです、ね、自分自身の心の上にその事を持って行くような、お繰り合わせを頂いたらです、言わんで済むだけではなくて、次に生まれてくるのは、信心の体験だとこういうことなんです。ね。
ここんところをです、金光様と、といこといたい事でも、言わんで、自分自身を本気で見極めるという所、そういう信心がです。繰り返し繰り返し出来て来るところにです。いわゆる、今朝から頂く信心の教えようとして教えられるものではないと、私が例えば昨日、ね。ここで、有り難い有り難いと、本当に、有り難いとこう思わせて頂いておったら、お社の中が空になっとる御心眼を頂いておる。
いわゆる、私が有り難うなっておるときにはもう、神様がお社の中から出て来てござるという事。もう私の中にござるという事。私の周囲に働いてござると言う事。ね。そういう、例えば、ほんなら、有り難いというものを、皆さんもどうぞ味わいなさいと言うたって、さあ、すぐ味わえるものではないけれどもです、ただ今申しますようにです、ね、只今の、その笑い話ではないですけれども、笑い話に似たような、はぁほんに、自分は小僧さんの所じゃなかろうか、ね。
中憎さんのところじゃなかろうか、本当に自分で吹き出したいごたる。本当に神様から頂いて見りゃです。いかにも、私がご結界からですたい、ね、本当に悟りすました大先生のような風して「おいおいち、なんていうはしたない事か」とこう、言うておるその自分自身がです、やっぱりもう戒を破っておると。ね、神様のいわば神様のこっからご覧になったらです、どれもこれも同じなんだと言う事。そういう愚をです。
繰り返し繰り返しするよりも、いよいよ本気でです、ね、我情を捨てさせて頂くところの稽古をさせて頂いて、体得させて頂くのが( 録音不良 )自分で調子を合わせることは出来ない。ね、何時のまにか稽古をさせて頂いておる内にです体得するのであるようにです、やはり稽古をしよらなければ体得は出来ない。今日もまた言うて失敗した。または今日も失敗したでは稽古にならんという事。ね。本気で稽古をする気がないからだと、本気でその事に取り組ませて頂いてです、言わんで済むおかげ。
そこから、私は本当に信味が体得されるのではないかと、まあ思うのです。これはね十三年前に頂いた御理解なんです。これはもうその当時いわゆる名御理解だった。大変これでおかげ頂かれた方が当時有りました。その十何年前の御理解を今日家族の者にお茶を頂きながら、させて頂いたらです家内も子供達も、ほんにそげんじゃんねちいうてからその、まあ改めて有り難く頂いた。それをまた今日皆さんにご披露したわけなんです。
おかげを頂きまして有り難うございました。